358)「いざというときに役に立ちたい」 鬼北町の愛治小5.6年生に地域の希望を見た気がします!

愛媛新聞のこの記事。本当はいろんな角度からとらえてみたいのですが・・・
ここでは2つの視点に絞って見ていきたいと思います。

1 これからの新しい公共(いわば「官」と「民」の間にある「公」)
2 そのための地域をあげた教育(地域の担い手の育成)

何より注目したいのは、記事の最後の部分です。
ポイントは彼らは「傍観者」ではなく、「当事者」になるだろうということです。

6年の毛利菜瑠さん(12)は
「いざというときに役にたちたい」
と話していた。

まずは愛媛新聞の記事をご覧ください。
記者は、宇和上翼さん。(画像は高平さんのFBから拝借しています。後段にリンクを貼っておきます。)

1 新しい公共という視点
鬼北町は高齢化率42.3%、県内5番目。この問題に一歩先んじて直面しています。
これから認知症への対応は避けて通れない。遅かれ早かれどの地域も同じ道をたどります。
「認知症700万人時代」にどう立ち向かうべきか

今後おそらく税収が減る行政には、きめ細かい対応は限界があると感じます(決して行政の手抜きとかいう意味ではありません。現実的に難しいだろうという意味です)。

では、誰がその役割を担うのかということなのですが…。
その答えを鬼北町の取り組みに見ることができるように思います。

「いざというときに役にたちたい」

小学生がこう言っているのですね。
ここ。すごくないですか?
「それは本来行政がなすべきことだろう。なんで納税者の私たち市民が・・・。」
あたり前ですが、彼らはそんなこと言わないです。純粋です。そんなこと思いつきもしない。
ただ素直に「役にたちたい」「役に立てる」そう感じている。
ある意味、本来全ての人が持っている、くもりのない本能かもしれないです。

大人だったらどうでしょう。
もし、行政が「すみません、もうそこまでサービスに手が回りません」って言ったら、どんなことを言いそうですか。

2 地域をあげた教育(地域の担い手の育成)という視点
愛治小学校の10人は、今回のことを通じて何を感じたでしょうか。

彼らは小学生ながら、自分たちも地域の担い手の一員であることを自覚したと思います。
小学生でありながら、地域と地域の大先輩たちのために、自分たちにもできることがあるんだということを学んだのですね。

そして「役に立ちたい」そう言っています。

この素直な思い。素晴らしくないですか?
この思いの芽をつむようなことをしたくないですね。
小学生なんですから難しいことは解ってないと思います。
ただ素直に「役に立ちたい」、役に立てれば「うれしい」そういうことなのかなと。

この小さな芽を大きな「志」に育ててやりたいです。
一回じゃ忘れてしまいます。
このような機会を幾つも用意してあげられるようにしたいですね。

地域の担い手として「自分たちにもできることがあるんだということを学んだ」そういう小学生の彼らは、いずれ中学生になり、高校生になり、自分たちの地域には実は様々な課題があるんだということを知ることになるでしょう。

その時、彼らは、地域の問題や課題から逃げるでしょうか。それとも向き合うでしょうか。

鬼北町のこの取り組みが、数年後にその答えを見せてくれると感じます。
学校任せでない地域をあげた「教育」が生み出す地域の希望なんだと思います。

「明日は好藤小学校でやります!」だそうです。

こちらの記事も併せてご覧いただきたいです。
357)鬼北町の取り組みが素晴らしい!“小中学生による「認知症キッズサポーター」養成講座”

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