202)司馬遼太郎「花神」 わずか十万石ながら藩主の決断によって、独力で世界に追いつこうとした宇和島藩。

司馬遼太郎と城を歩く 宇和島城
幕末から維新そして明治。
この時期、宇和島藩はその後の日本を左右するような役割をはたしました。
人材によってです。リーダーとそれを支える人々。交流。そして教育。
背景にあるのは風土、文化、あるいは土壌といっていいように思います。
この国の探求を極めた司馬遼太郎さんが最も愛した地域の一つが宇和島です。
その理由も人と風土だったと思います。
今、幕末あるいは戦後以上の大きな試練・変化の時期かもしれません。
逆に言えば、そういう時期だからこそ宇和島には可能性があると思います。

動画は15分です。ご覧ください。

入り組んだリアス式の海岸線。四国の西南端、黒潮が流れ込む宇和島湾です。

宇和島の一日は朝6時に市内に流れる鉄道唱歌で始まります。
この唄の作詞者は、宇和島藩の士族の出身でした。

司馬遼太郎は小説「花神」で倒幕に活躍した長州藩の軍事指導者「大村益次郎」の生涯を描きました。
明治2年、陸軍を創設することになる益次郎は若き日に宇和島で初めて西欧の軍事技術に触れ人生の一大転機を迎えたのです。

蘭学は「宇和島」。という評判が既に先代藩主の伊達宗紀のときから世にひびいていた。
宇和島と言えば明治後の交通地理では僻地で、その小さな城下町のまわりを山々が屏風のようにかこみ、伊予松山からも土佐高知からもよほどの難路を踏み越えねばたどりつきにくく、しかも唯一の開口部は海でしかない。
こういう土地に深耕度の高い学問文化がさかえたというのが江戸期というこの分治制度のおもしろさであろう。

港のすぐ背後、周囲1キロメートルあまりの丸い城山が宇和島城です。

宇和島鶴島城図

宇和島城

かくして宇和島の伊達家は、九代250年を経て明治維新を迎えます。
これ以前、幕末に名君とたたえられたのが八代目の藩主伊達宗城でした。

名君 伊達宗城

現当主は、安政期の志士たちから四賢候の一人として期待された伊達宗城である。
伊達宗城は、ペリーが来航したとき江戸湾警備に出て、海岸からはるかにペリーの蒸気軍艦を見、あれを宇和島でつくってやろうと考え、幕閣の許しを得てその建造方を国元に命じたという人物である。

宗城は長州出身で大坂の緒方洪庵のもとでオランダ医学を学んだ村田蔵六、のちの大村益次郎を宇和島藩に招きました。

蒸気船 黒船

「わしはな蔵六」と体をくずし、顔をせり出してきた。
「品川沖でな。例のメリケンの黒船というものをな。この目で見た。」と言った。
「動く城のように巨大で絶えず煙をはき、白波をけり、無数の砲を乗せており、欧米文明の一大象徴のように思えた」と宗城はいうのである。
「日本もあれをつくらねば外国の侵略に打ち負かされる。そこで江戸城において、薩摩殿、肥前殿、それにわしというこの三人で約定したのよ。」といった。
「三藩相競うて、競争であの黒船をつくろうではないかと。」

宗城は医学しかしらなかった村田蔵六にオランダ語の専門書を翻訳して船を設計するよう命じました。

一方で和船に大砲を積んで砲撃実験を始め、更に、黒船に似た外輪を持つ人力の和船を取り寄せ研究させたのです。

蒸気用ボイラー

肝心要の蒸気機関は城下にいた嘉蔵という提灯屋の男を抜擢して製作を命じます。
藩を挙げての試行錯誤のすえ、ついに実験的な蒸気船が完成しました。
黒船来航からわずか三年目のことです。

一般には外国人の技師を雇った薩摩藩の船が日本初の蒸気船とされていますが、宇和島藩の船は日本人だけでつくった蒸気船の第一号でした。

余談ながら、日本人が新しい文明の型を見たときに受ける衝撃の大きさと深さは到底他民族には理解できないであろう。この時期前後に蒸気軍艦を目撃した民族はいくらでも存在したはずだが、どの民族も日本人のようには反応しなかった。
憧憬は危機心理に裏打ちされるときに強烈になるものらしいが、この江戸湾頭で蒸気船を見た日本人たちのうち、島津斉彬、鍋島直正、伊達宗城という三人の代表的危機論者が「自分もあれをつくろう」と戦慄とともに決断したことが、この時期にわきおこったエネルギーのすさまじさを象徴している。

わずか十万石ながら藩主の決断によって、独力で世界に追いつこうとした宇和島藩。
宗城の試みは、のちに宇和島の造船業の誕生にもつながりました。

港を見守る城山の天守に登れば、はるか彼方からわたってきた海風を感じることができます。

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