320)城内章さんの漫画がおもしろい! 「宇和島藩七代藩主 伊達宗紀 公」の巻き

城内章さんの漫画がすごくおもしろいです!城内さんのFacebook
宇和島の歴史がとても親近感をもって感じられます。こういう形で地域の歴史への入口を身近に感じてもらうアプローチがとてもいいなと思いました。
なんだか急に伊達博物館に行って確かめてみたくなりました。展示物や解説との距離もグッと近くなって見方が変わるような気がします。

伊達 宗紀(だて むねただ、寛政4年9月16日(1792年10月31日)? - 明治22年(1889年11月25日))は、伊予国宇和島藩の第7代藩主。百歳長寿の大名として知られる。
第6代藩主・伊達村寿の長男。正室は鍋島治茂の娘・観。子は伊達宗徳(三男)、松平忠淳(四男)、正子(松平忠精継室)、節子(保科正益正室)。官位は従四位下。遠江守。左近衛権少将。通称は主馬。号は春山。隠居後の余生を過ごすために天赦園(名勝指定)を築庭。

宗紀の年齢は、実際は100歳以上ではなかったのかとも言われているが、幕府の届け(官年)では寛政4年(1792年)生まれと出されているため、この出生年が有力である。もっとも、幕府の届けに関しては「嗣子になった際2歳年長にして届けている」という話もあり、実際にこの届出に基づいて年齢を計算していた時期もあった。そのため、亡くなった明治22年(1889年)には実際には98歳であるが「100歳になった」ので、それを祝って明治天皇と皇后から下賜品を賜っている。

若いころは酒豪で鳴らしたものの、晩年には酒量を控えるようになった。また、現代のボケ防止にも通じる朝晩の散歩や長続きしやすい趣味(書道など)を長年の日課とした。老いによる難聴になった以外は体の不調もなく、自分よりはるかに年下の者が苦労するほどの急な階段も楽に上り下りできたと言われている。

側近の者が「侯の長寿の秘訣は何でございますか」と問うたところ「それは女色を慎むことにある」と答えたため、重ねて「侯におかせられましては何歳から女色を慎まれましたか」と質問するとおおらかに「70歳じゃ」(75歳、80歳とする場合も)と言った、という逸話が、特に宇和島では有名である。

(ウィキペディアより)

伊達博通信 2013年7月31日水曜日
平成25年度後期展  『長寿、宗紀 -長寿大名100年を謳歌- 』 ご案内 (その3)
第3展示室テーマ 「 福寿、宗紀(むねただ) 」

つづきは、またあらためてご紹介できると思います。

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